essay

2006年7月11日。この日が父の命日である。
母はそれより二年半ほど前の2004年2月に既にガンのためこの世を去っていて、結婚して実家を出た僕と入れ替わりで戻った姉の家族とともに父は暮らしていた。僕は脳梗塞で倒れて以来自宅で療養中だった父を時々訪ねていた。

アメリカから帰ってすぐに子ども達を連れて父を訪ねた。はっきりと憶えていないが土産でも持って行ったのかもしれない。
僕が行くと父はベッドに横たわっていて腹が痛いと言っていた。けっこう痛そうだったので救急車を呼ぼうかと言ったら、呼んで欲しいということで慌てて救急車を呼ぶこととなった。

救急車に乗り込むと容態が急変し、病院に到着する前に父の意識は遠くなった。主治医によると以前より腹に大動脈瘤というのがあってそれが破裂したのだという。いつかこうなることを父は覚悟していたらしい。結局父はそのまま帰らぬ人となった。

大正生まれの父は曲がったことの大嫌いな真面目な性格だったが僕同様商売は下手だった。母はそんな商売下手なことを嘆いてもいたが、侍のように潔い生き方の父を大人になった僕は好きだった。

あの日僕が父を訪ねたのは偶然ではないと思っている。父は僕が訪ねるのを楽しみにしていると、母から聞いたことがあった。だからきっと最後に父が僕を呼び寄せたのだ。

ここに綴られた拙文は父の葬儀が終わり、まだ日の経たぬうちに書いた物である。何故そんな時にアメリカでの釣りの紀行文など書いたのかというと、それには理由があるのだがそれは語らずにおこうと思う。

久しぶりに読み返してみると少し照れくさいような部分もあるのだが、当時の文章にはあまり手を入れずにおく。文才があるとは言えない僕にしてはずいぶん長い文章を頑張って書いていると思う。父の手助けがあったのかもしれない。

マイ・チープ・フライ

それにしても日陰などまったく無いまともに太陽の光に晒されたこの川で、こんなにもたくさんのライズがあることが不思議だった。鱒たちは隠れる場所もほとんどない牧場内を流れるこのスプリングクリークで、この時間いったい何を捕食しているのだろう。先程から僕が投じ続けているフライはことごとく無視されているのだ。
僕はフライを投じ続けることに疲れ、ベン・ハート・クリークの岸辺の草むらに腰をおろし流れの中に両足を入れ、したたる汗をぬぐいながら今日これまでの釣りをふり返っていた。

午前中ガイドのロバートの勧めで日本ではめったに使うことのないニンフでの釣りをした。
ストローハットを目深にかぶったロバートは、一見するとガイドというより牧場の草刈りのほうが似合っているのではないかと思えるいでたちで、とにかくよく喋りゲストを褒めちぎる男なのだ。彼は大げさに僕を褒め、時々日本語で「アツイ」を連発しては陽気にふるまった。
ガイドが側にいて釣りをすることなんて初体験だったのでやりにくい気持ちもあったが、そんな彼の態度には好感がもてたし彼のためにもどうしても1匹は釣りたかった。
慣れないニンフィング・システムで少々キャスティングにはてこずったが、ロバート・コーチのアドバイスのおかげでアメリカに来て最初の良型を含む3匹の鱒を釣ることができた。
その後場所を変えドライで1匹釣った。この時もロバートはドライで釣れたことを褒めたたえ「グッ・ジョブ・マイ・フレンド」とか何とか言い、僕もまた彼にまけじと大げさに「サンキュー・マイ・フレンド」と言ってかたく握手を交わした。ここで午前の釣りを終了し、めでたくランチタイムとなった。

時計の針は午後四時をまわっていたが、いぜんとして厳しい暑さが続いていた。
ロバートは上流で釣りをしているマサのところにいったきり戻って来ない。しばらく休憩したので汗もひいたようだ。僕は立ち上がりなにげなく目の前の流れに視線を移した。
午後の日差しをうけキラキラと輝く水面を、クリーム色の小さな帆掛け船が行儀良く二つ並んで流れていった。見上げるとやはり何匹かのダンがわずかな風に舞っている。フックサイズにして18番位だろうか?
僕はフライボックスの中に数年前に巻いたクリーム色のCDCダンがあることを思い出した。

8つ並んだCDCダンはなんとも不格好なフライばかりだっだ。ポストに立てたCDCはファイバーの長さがおそろしく不揃いだし、テールは明後日の方向をむいている。ダビング材がスレッドに適当に縒りつけてあり、ボディーの太さはマチマチで美しいシルエットのフライとは縁遠い物ばかりではないか。それでもいちばん上手に巻けてあるものをひとつつまみだしティペットの先端に結んだ。
僕はダメでもともと、最後のあがきとばかりにキャスティングをはじめた。
2度目のキャストでフライはライズの30cm程上流に落ち、「よし、いいぞ」と言い終わらないうちにカポッという音とともに水中に消えた。このフライに魚が出たのが以外だったせいか少々あわててアワセをいれたが魚はうまくフッキングした。
セージの4番ロッドが大きく弧を描き数分後にランディングネットの中にズシリと横たわったのは、この日一番の大物のレインボーであった。
これはロバートに見せたい。彼はまたおおげさに喜んでくれるにちがいない。そう思い辺りを見回し数分待ったのだが、彼のストローハットが草むらの向こうから現れることはなかった。

2匹目のドジョウならぬ鱒を狙った僕は、再びそのぶかっこうなCDCダンを結び、先程より2m程下流でライズしている魚に目標を定めフライを投じた。
出た! 今度は一発できまった。少々小ぶりではあったが初めてのブラウンだった。
半信半疑で選んだフライ。僕が巻いたチープなフライ。
そのフライで2匹たてつづけに釣れたことに驚き、そしてうれしかった。
こんなことってあるのだろうか。僕の巻いたフライなんてこのアメリカで通用するなんて思っていなかったし、今日もここに来る前にフライショップに寄って2〜3ドルもするフライを10個程買ってきたのだ。だがそのフライは魚たちにほとんどあいてにされなかったのだ。
もう一匹釣れたらまぐれじゃないぞ! 僕はまたしてもCDCダンを結び以前として続いているライズめがけてキャストした。
そうして魚は釣れた。3匹目の魚が釣れたとき、僕の頭の片隅にあった「疑い」は「確信」と「自信」に変わった。

魚をリリースしランディングネットの水を切っているところにロバートが戻ってきた。僕は彼がいなかった間に何があったのかを少々興奮ぎみに話し、彼は期待どおりに大げさに喜んでくれた。彼は残された時間でさらなる大物を釣ろうと僕をさそった。僕はどうしても彼の目の前でこのフライで魚を釣りたかったので、当然その誘いにのりそして目的はみごとに達せられた。

この日の釣りで僕は9匹の鱒を釣った。そのうち4匹は僕のCDCダンで釣ったものだ。これこそがマッチ・ザ・ハッチの釣りといってしまえばそれまでだが、美しいプロポーションのメイド・イン・USAのフライたちをおしのけ、不格好な僕のフライがどうしてそんなにも鱒たちの心をつかんだのかはわからない。
ただひとつわかっているのは、この先僕がフライフィッシングを続けるかぎり僕のフライボックスの中にチープなCDCダンが有り続けることだろう。

マディソン川ライン下り

フィッシング・アクセスにはすでに何台もの車が集まってきていた。ほとんどの車の後ろにはボートが繋がれている。これほど多くの釣り人が、これから自分たちと同じ川の同じ区間をボートで下り釣りをするのだろうか? 僕はアメリカという国の広さからいって、一日中釣りをしても誰にも会うことはなく何キロもの区間を独り占め出来る、というような状況を想像していたので目の前の光景には驚かされた。これではまるで日光湯川での朝の『赤沼茶屋駐車場』の風景のようではないか。
僕はせこい島国根性が出ていそいそと釣り支度をはじめたがアメリカ人たちは皆のんびりと構えているようで、中にはビールを飲んで談笑している者もいた。またガイド達もお互い顔見知りなのか、それとも見ず知らずの相手とも気さくに会話が楽しめるというアメリカ人の国民性なのかはわからないけれども、およそ釣りとは関係のないようなことを楽しげに話しながらボートを川に降ろす準備をしていた。

ボートが岸から離れて100m程下った時、左岸にガイドのロバートはボートをとめた。そこで僕たちはボートフィッシングでの注意点をいくつかきき、そしていよいよ初めてのボートフィッシングがスタートした。
ボートには椅子と立ったまま釣りが出来るように身体を支えるためのものが前方と後方の2ヵ所にあり、同行者のマサの勧めで僕はその前方に陣取った。これは後で実感したことだが前の方が絶対有利なのだ。元バスプロのマサはそのことを知っていたのであろう。年上の僕の為に彼が譲ってくれたのだ。

川面には乾いたさわやかな風が下流方向から吹いていて、ボートはその風を切り裂くように進み、さざ波を越え大岩をかわしながら快調に進んでいった。僕はボートの前方に立って風をうけながら爽快な気分になり、友人の章一さん風の博多弁で「よーし、釣っちゃるぞー」とか何とか言って気合いをいれたが、そんな心地よい風が僕の釣りにとって大敵になるとは思いもよらなかった。

ロバートはキャストする方向を時計の文字盤にたとえて11時とか10時とか、それを英語でイレブンとかテンとか言うのだが僕のフライは風にあおられ度々ナインの方向に飛んでしまい、後方に陣取ったマサの縄張りを侵してしまうこととなった。
そんな風と格闘しながら必死になってキャスティングを繰り返していたとき、この日最初の魚が後方のマサにきた。ロバートが大声で「フィッシュ」と叫び忙しくオールを漕ぎ始めた。僕はあわてて自分のラインをたぐり寄せ彼の最初の一匹のランディングを手伝おうとおもったが、揺れるボートの上でもたつき結局僕の出番はなく魚を見ることもなかった。その後も釣れるのはマサのほうばかり、これはもう腕の差なのだとこの時点ではあきらめるよりほかなかった。

背の高い木々が川岸近くまで生い茂った場所にボートをとめランチタイムとなった。以前として僕はノーフィッシュだったが魚が釣れないこととお腹が空くことは別問題のようで、ロバートが用意してくれたサンドイッチをきれいにたいらげた。
ロバートはというと相変わらずサーモンフライ探しにいそがしいようだ。それが彼の楽しみかどうかは知らないけれども、彼は岸に上がるたびにサーモンフライの幼虫やら成虫を探してきては僕たちに披露してみせるのだ。

僕たちがランチタイムの休憩をしている間にも、何艘かのボートが川を下っていった。
Tシャツにショートパンツ姿で、いかにもやる気がなさそうにロッドを振っている若い女の子を乗せたボートが来たかと思えば、二人の大きなアメリカ人が椅子に座ったままこれまたやる気なさそうにキャスティングをしていて、ついでにガイドもやる気なさそうにオールを漕いでいる。そんな観光ライン下り気分で釣りをしている人達をみていると、僕としても焦りの気持ちがどこかに消えてしまい、そのうち釣れるだろうと思えてきてなんだか気分が楽になった。

午後の釣りはというと午前中とは全くちがうものになった。ランチタイムに気分を変えたのが良かったのか、それともボートの揺れに合わせたキャスティングに慣れてきたのか、ロバートの「ストライク」とか「ビッグ・フィッシュ」とかいう叫びがマディソンの川面に響くこと度々。大小とりまぜ数匹の鱒を釣ることが出来た。ただひとつ残念だったのは、最初にヒットしたレインボーがかなり大きかったこと。いま少しというところで張りすぎたティペットが切れ万事休す。この時は思わず天を見上げた。それでも最後に釣った雄のブラウンは、黄金色に輝く魚体が美しいマディソン川での楽しい一日を締めくくるビッグ・ワンであった。

しかしボートフィッシングというのは本当にいそがしい釣りだっだ。マディソン川上流域の両岸には雄大なアメリカの美しい景色がひろがっているのだが、とにかくよだれの出そうなポイントが次から次へと勝手にやってくるものだから僕の目は川に釘付けになり、そんな美しい景色を眺めている余裕など全くないのだ。それでも大物が釣れるとロバートが必死になってオールを漕ぎボートを岸に着けてくれるので、この時とばかりに写真を撮り景色を眺め、僕のアメリカ釣行の記憶に残る一枚の絵としてしっかりと脳裏に焼付けることが出来た。

さらにこの日、フライフィッシングをするようになってから初めての体験をした。それは一度もフライを自分で交換しなかったこと。すべてロバートがやってくれた。自分で交換した記憶が全くないのである。こんなことでいいのだろうか? いや、いいのだ! 観光気分でも魚は釣れたし、何より今日一日が楽しかったじゃないか。

観光フライフィッシング万歳! 僕は胸を張ってこう言うことができる。

ラストチャンス

川の中ほどからやや対岸に寄った下手の瀬でバシャンという水音がした。僕はとっさにそちらのほうへ視線を移した。大きな飛沫の中から一対の翼が広がり、あっという間に水面から飛び立ち僕の頭の上を通過してラストチャンスの上空高く舞い上がった。見上げるとそれは先程から川の上空を旋回していたタカで、彼も僕と同様ヘンリーズフォークの鱒を狙っているのだ。

いま僕が立っているのは「お立ち台」と呼ばれるラストチャンスのちょうど中間辺りに設置された物見台の正面で、僕とお立ち台の間にはビーバーが造ったというダムがある。水はダムによって二手に別れすぐ下の瀬を下り、下流で再び太い一本の流れとなっていた。
僕は右岸の狭いほうの流れの岸に立っていた。この場所は昨日の午後の釣りのほとんどをついやした場所だ。僕はまた今日もこの場所に立ってしまった。僕が再びこの場所に戻った理由は昨日この場所でたくさんの鱒が釣れたからではない。昨日この場所で一匹の鱒も釣れなかったからだ。
いま目の前の流れにライズはない。僕は岸にいくつかある石のひとつに腰をおろし、目を閉じて昨日の釣りを思い出していた。

それはヘンリーズフォークに来て3日目の釣りだった。すでに7〜8匹の鱒を釣っていたが、みな小型ばかりで目標の20インチにはほど遠いものばかりである。
この川で大きな魚を釣るためにはまず大きな魚のライズを見つけること。そのためにここを訪れた釣り人のほとんどが、川の両岸をあっちに行ったりこっちに来たりと歩き回っている。実際ライズを見つけることができなければ半日でも一日でも歩いているだけなのである。
ここはダムによって二手に別れた流れが下流の瀬に落ちる直前のちょうどカタにあたる場所で、上流から流れてきた餌が集まるためか、何匹ものマスが集まっているようである。僕はここで運良くライズを見つけることができた。

最初に僕の左手上流でひとつ。しばらくすると右手下流でもひとつ、いやその先にもうひとつ。さらに下流でまたひとつ。そして僕の正面にもライズリングがひろがっていった。
同じ魚が場所をかえてライズしているのか、それとも何匹かの魚がライズしているのか。ライズの位置がいまひとつ定まらないのである。僕はしばらくライズを観察することにした。その結果、確実に3匹はいるということがわかった。
僕の回りには数匹のカディスが飛んでいる。数はそれほど多くはない。目の前の流れを見るとPMDが時々流れてくるが、これは四六時中流れているようにも思えた。いったい鱒達は何を食べているのだろう。
マッチ・ザ・ハッチの釣りが始まった。

最初はダン、次にスペントスピナー、さらに自作のパラシュートを試したがことごとく無視された。フライが合っていないのか、それともドラグがかかっているせいか。たしかに目の前の流れは速く、僕のフライは30cmもナチュラル・ドリフトしていないように思われた。何種類もフライを交換した。立つ位置を変えてみたり、上手くはないS字キャスト等も試してみた。それでも鱒達には見向きもされなかった。

やがて太陽は大きく西に傾きはじめ、僕の回りから少しずつ色が失われていくのを感じた。その中で先程から僕の回りを無数に飛びはじめているカディスの長い触覚が、夕陽をうけて金色に輝いていたのが印象的だった。
僕はしばらくのあいだ黄金色のカディス達の乱舞に見とれていたが、我に返り目の前の流れに視線を戻した。
ライズは一層激しさを増していた。闇がちかづくにつれ鱒達は一切の警戒心を解き、一心不乱に流れてくる餌を食べている。あたりはだいぶ薄暗くなってきていたが目の前の流れは白く輝き、そこにはたくさんのダンが流れてきていた。魚がダンを捕食しているのは間違いなかった。それは僕の眼が一匹のダンを追いかけていたとき、白い流れの中から大きな口と頭が突然現れダンを呑み込んでいったのを見たからだ。
僕は再び流れにフライを投じた。地平線へ沈みゆく日の光を背に受けながら、何回も何回もキャストを繰り返した。もう時間とのたたかいでもあった。

以前として目の前の流れにはたくさんのダンが流れ鱒達はライズを繰り返しているが、流れてくるダンのほとんどがそのまま下流の瀬に落ちていった。そんな状況の中で僕のフライを食べる確率はどれほどのものなのだろう。たった一度だけ僕のフライに魚が出てそれが水中に消えたように思われた。でも結局フライはむなしく空を切っただけだった。
おおきなため息が出た。僕はもう一度だけキャストしたが、すでに闇に包まれた川面のどこを自分のフライが流れているのかさえ分からなくなっていた。

水がはじける音がした。目を開けると右斜め前方に小さなライズリングが広がっていた。昨日と同じ場所である。やがて左手上流でも魚がライズし、あっという間に3つ4つとライズが増えた。今日もこの場所にライズの時がおとずれたのである。
僕は魚達に挑戦状をたたきつけキャストをはじめた。昨日と同様、知るかぎりできる限りの釣りをした。そして一度だけ18番のソラックス・ダンに魚が出た。魚はかからず結局一匹も釣れないままライズは1時間ほどで終り僕は敗れた。
僕はいさぎよく竿をたたんだ。ある意味ここでの釣りに納得したからだ。もうこれ以上いくらやっても今の自分には釣れないと思った。腕をみがいて出直しである。いつの日か必ず、この目の前の流れであの巨大な口をもったライズの主を釣ってやる。
「ヘンリーズフォーク・ラストチャンス」……僕は意味もなくそうつぶやき流れを後にした。

対岸へ渡りお立ち台のあるところまで帰った時、一度だけその場所を振り返った。大きな鱒が水中から浮かび上がり、ゴボンと何かを食べる音を聞いたような気がした。

梅雨空の下で

アメリカに旅立つ4日前に僕は発熱した。僕には二人の息子がいて、そのうちのどちらかがいつも風邪をひいているものだから、我が家には常に風邪の菌が蔓延しているようなのである。
さいわい熱は下がったが体調は万全ではなかった。万全ではない体調の体を引きずるようにして飛行機に乗り、どうにかシアトルまでたどり着いた。とても長いフライトに思えた。しかしここまで来ればあとひといきである。そう思ったのがあまかった。国内線の乗り継ぎまで10時間というただでさえ長い待ち時間を予定していたが、出発が遅れ結局シアトルで14時間も待たされた。

僕たちを乗せた飛行機がモンタナ州のボーズマンに到着した時刻は憶えていない。ただ広大なモンタナの空が明るさを取り戻しはじめていたような時間だったように記憶している。
一刻も早くベッドに横になり眠りたかったかというとそうでもなかった。そんな時間はとうに過ぎていたし2〜3時間寝たところで快調な朝を迎えられるような気がしなかった。

アメリカに来て最初に訪れたマディソン川で、初めてアメリカ人フライフィッシャーを見た。誰も彼もがみな上手に思えたが実際はそんなこともないのであろう。
とにかく僕も釣りをはじめた。そしてまだそれほど時間がたっていないとき、なにげなく投げたフライに魚が出た。マディソンの速い流れの波の中から大きな魚体が現れフライとともに水中に消えた。僕はアワセをいれ竿が大きくしなったが、次の瞬間竿先から重みがなくなりラインが宙を舞った。ティペットの先にフライはついていなかった。とても残念だった。この先もう二度と大物が出てこないような気さえした。

ベン・ハート・クリークでの釣りは暑さとの闘いであった。持っていったペットボトルの1リットルの水が午前中でなくなり、熱中症寸前であった。しかしロバートという明るく気さくで、そしてとても一生懸命なガイドと出会ったことで、僕はなんだかアメリカ人とアメリカの釣りが好きになった。おまけにその日は自分で巻いたフライで魚をたてつづけに釣ったことで、いままで作り続けてきたオリジナルフライに自信をもつこともできた。

アメリカ時間にも慣れ、体調が回復したところでボートフィッシングを体験することとなった。『ボートフィッシングはもういいよ』という人もいるそうなのであまり期待をしていなかったが、僕の印象は全然違った。レクレーションの釣りとしては最高であると思った。次々と移りゆく美しい景色の中でアメリカの自然を肌で感じながらボートで下る爽快感。運が良ければ六番ロッドをバットから曲げる大物とのファイトが楽しめる。僕はすっかりボートフィッシングの魅力にとりつかれてしまった。

そして、ヘンリーズ・フォークの釣りはというと、これはもう『執念の釣り』とでも言うべきだろうか。
初日二日目とライズ探しから始まり、岸辺を右往左往するばかりであった。3日目にしてようやく激しいライズというものを目の当たりにし、もうその場所に釘付けとなってしまった。目の前でライズしている魚は誰にも釣らせたくはなかった。僕はフライが見えなくなる時間までねばったが結果は惨敗であった。
ここでの釣りは必ずしも僕の好むところではないかもしれない。しかし、僕はいつの日かまたヘンリーズ・フォークに行こうと思っている。それはあの川でやり残したことがあるから。

僕は今この文章を東京の仕事場で書いている。窓越しに見る小さな空は灰色をしていて、時々なまぬるい雨を降らせている。
アメリカから帰国してまだ一度も日本の渓で釣りをしていない。8月、9月と残すところあと2ヶ月となってしまった今年の釣りシーズンをどの渓で遊べばよいのだろうか。
近年になって足しげく通うようになった日光湯川で、ブルック相手にマッチ・ザ・ハッチの釣り修業でもしようか。それより大好きな栃木県北部の渓に出かけ、ひんやりと涼しい広葉樹の森の中を流れる渓でイワナと戯れるのがよいかもしれない。
しかしいずれの渓を訪れるにしても、僕の4番ロッドを弓なりに曲げる魚に出会うことはないだろう。

2006年 夏